今年は、1945年8月6日、広島市にアメリカが原子爆弾を投下した日から80年が経った年である。
統計によれば、死者14万人以上、負傷者8万人、人口に対する被災率63%、広島市建物等壊滅率90%とされている。
毎年、この日は内閣総理大臣が広島原爆記念公園で挨拶を行う。
今年,2025年(令和7年)の石破総理の挨拶は、次のようだった。
「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式 内閣総理大臣挨拶
今から80年前の今日、一発の原子爆弾が炸裂し、十数万ともいわれる貴い命が失われました。一命をとりとめた方々にも、筆舌に尽くし難い苦難の日々をもたらしました。
内閣総理大臣として、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、ここに謹んで、哀悼の誠を捧げます。そして、今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心からのお見舞いを申し上げます。
2年前の9月、広島平和記念資料館を、改装後初めて訪問しました。80年前のあの日、立ち上るきのこ雲の下で何があったのか。焦土となり灰燼に帰した街。黒焦げになった無辜の人々。直前まで元気に暮らしておられた方が四千度の熱線により一瞬にして影となった石。犠牲者の多くは一般市民でした。人々の夢や明るい未来が瞬時に容赦なく奪われたことに言葉を失いました。
広島、長崎にもたらされた惨禍を決して繰り返してはなりません。非核三原則を堅持しながら、「核兵器のない世界」に向けた国際社会の取組を主導することは、唯一の戦争被爆国である我が国の使命です。
核軍縮を巡る国際社会の分断は深まり、現下の安全保障環境は一層厳しさを増しています。しかし、だからこそ、国際的な核軍縮・不拡散体制の礎である核兵器不拡散条約(NPT)体制の下、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現に向け、全力で取り組んでまいります。
来年のNPT運用検討会議に向けて、対話と協調の精神を最大限発揮するよう、各国に引き続き強く呼びかけます。また、「ヒロシマ・アクション・プラン」に基づき、核兵器保有国と非保有国とが共に取り組むべき具体的措置を見出すべく努力を続けます。
「核兵器のない世界」の実現に向け歩みを進める上で土台となるのは、被爆の実相に対する正確な理解です。
長年にわたり核兵器の廃絶や被爆の実相に対する理解の促進に取り組んでこられた日本原水爆被害者団体協議会が、昨年ノーベル平和賞を受賞されたことは、極めて意義深く、改めて敬意を表します。
今、被爆者の方々の平均年齢は86歳を超え、国民の多くは戦争を知らない世代となりました。私は、広島平和記念資料館を訪問した際、この耐え難い経験と記憶を、決して風化させることなく、世代を超えて継承しなければならないと、決意を新たにいたしました。
政府として、世界各国の指導者や若者に対し、広島・長崎への訪問を呼びかけ、実現に繋げています。資料館の年間入館者は、昨年度初めて二百万人を超え、そのうち三割以上は外国からの入館者となりました。日本だけでなく、世界の人々に被爆の実相を伝えていくことも、私たちの責務です。
「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」は、施行から30年を迎えました。原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、引き続き、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策を進めてまいります。
結びに、ここ広島において、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを改めてお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊の安らかならんこと、併せて、ご遺族、被爆者の皆様並びに参列者、広島市民の皆様のご平安を祈念いたします。
「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。公園前の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた、歌人・正田篠枝さんの歌を、万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします。
令和7年8月6日 内閣総理大臣・石 破 茂 」
この石破総理大臣の挨拶は、今までの総理大臣の挨拶と比較すると、具体的な事実を明示しながら自分の気持ちを率直に述べるなどしているだけでなく、最後の正田さんの詩を紹介するなど,被災者に寄り添う挨拶だったと,私は感じた。
ところで比較のために、安倍総理の挨拶を紹介する。2020年(令和2年)8月6日のときの挨拶である。
「 本日ここに、被爆75周年の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式が挙行されるに当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊(みたま)に対し、謹んで、哀悼の誠を捧(ささ)げます。そして、今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からお見舞いを申し上げます。
新型コロナウイルス感染症が世界を覆った今年、世界中の人々がこの試練に打ち勝つため、今まさに奮闘を続けています。
75年前、一発の原子爆弾により廃墟(はいきょ)と化しながらも、先人たちの努力によって見事に復興を遂げたこの美しい街を前にした時、現在の試練を乗り越える決意を新たにするとともに、改めて平和の尊さに思いを致しています。
広島と長崎で起きた惨禍、それによってもたらされた人々の苦しみは、二度と繰り返してはなりません。唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた国際社会の努力を一歩一歩、着実に前に進めることは、我が国の変わらぬ使命です。
現在のように、厳しい安全保障環境や、核軍縮をめぐる国家間の立場の隔たりがある中では、各国が相互の関与や対話を通じて不信感を取り除き、共通の基盤の形成に向けた努力を重ねることが必要です。
特に本年は、被爆75年という節目の年であります。我が国は、非核三原則を堅持しつつ、立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促すことによって、核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取組をリードしてまいります。
本年、核兵器不拡散条約(NPT)が発効50周年を迎えました。同条約が国際的な核軍縮・不拡散体制を支える役割を果たし続けるためには、来るべきNPT運用検討会議を有意義な成果を収めるものとすることが重要です。我が国は、結束した取組の継続を各国に働きかけ、核軍縮に関する「賢人会議」の議論の成果を活用しながら、引き続き、積極的に貢献してまいります。
「核兵器のない世界」の実現に向けた確固たる歩みを支えるのは、世代や国境を越えて核兵器使用の惨禍やその非人道性を語り伝え、継承する取組です。我が国は、被爆者の方々と手を取り合って、被爆の実相への理解を促す努力を重ねてまいります。
被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる支援の必要性をしっかりと受け止め、原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、今後とも、総合的な援護施策を推進してまいります。
結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ広島市において、核兵器のない世界と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、広島市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします。
令和2年8月6日 内閣総理大臣 安 倍 晋 三 」
この2つの挨拶文を比較して、皆さんはどう思うだろうか。
ところで、恥ずかしながら、石破総理のこの挨拶を読むまで,私は「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」のことを知らなかった。
慌てて調べたところ、次の通りだった。
この碑は、1971(昭和46年)8月4日 に建立されたもので、「ぐったりした教え子を抱え、自らも被爆した女性の教師が、悲嘆にくれ空を見上げている」ことを表した高2,4mのブロンズ像。建立の目的は、原爆によって生命を奪われた子どもと教師を慰めるとともに、「三たび原爆を許してはいけない」という平和教育を、現在及び未来に推し進める決意を表すとされている。
また、被爆当時の学校の状況については、次のように説明されている。
「1938(昭和13)年国家総動員法により、学校も戦争体制になり、1941(昭和16)年の国民学校令により呼び名も国民学校と変わり、現在の小学校にあたる初等科(6年制)と、中学校にあたる高等科(2年制)がありました。戦争が激しくなると、都市部の初等科の3年生以上の児童は防空対策の一環として強制的に疎開させられました。幼いため親元に残された1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科の生徒が原爆の犠牲になりました。(この頃の夏休みは、8月10日から20日まででした。)」 「犠牲となった国民学校教師・子どもの数は、正確にはわかりませんが、教師約200人、子ども約20000人と推定されています。毎年8月4日には、遺族、広島市内の小・中学校の児童・生徒の代表、教育関係者が多数参加して、慰霊祭を行っています。」
「この『太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあまたの骨 あつまれり』の短歌は、1946(昭和21)年に被爆歌人正田篠枝さんが占領軍の目をさけ、広島刑務所の印刷部で秘密出版した歌集「さんげ」からとられたものです。原爆の劫火の中で、教師を頼りながら死んでいった児童・生徒と、彼らを気遣いながら死んでいった教師の無念さを表現しています。」
なお、報道によれば、石破総理大臣は、広島市で開かれた平和記念式典のあと記者会見し、「今必要なのは、どうすれば二度と戦争を起こさないかであり、そのような仕組みについて考えてみたい」と述べ、戦争がなぜ起きたのか検証し、抑止するための仕組みの方向性を示したいという考えを示し、式典のあいさつで引用した歌人 正田篠枝の「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」という歌に触れ「どれほど悲惨で悲しい、つらい思いがそこにあったのか。時間とともに記憶が風化するのは避けがたいが、能動的に記憶を継承する努力は深めていかねばならない」と述べたそうです。
以 上