憲法改正論議がさかんになされるようになって、憲法第24条も結構みんなに知られるようになりました。
 第24条は次のようになっています。

 第1項
 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により維持されなければならない。
 第2項
 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 すでに性差別については、人種、信条などの他の差別と共に憲法14条で禁止されていますが、さらに上記のように第24条で両性の平等が保障されているのは、世界的に珍しいことだと言われています。
 この条項を考えたのは、ベアテ・シロタという当時22歳のロシア系ユダヤ人女性でした。彼女は民間人ではありましたが、日本に10年近く住み日本語が堪能だったことから1945年12月からGHQの民政局のメンバーとして憲法草案の作成に携わりました。そして、当時の日本女性の地位があまりにも低いことを憂慮して、アメリカ憲法にも規定されていない24条のような条項を日本の憲法に入れる必要性を強く感じたのだと言っています(「1945年のクリスマス」柏書房)。なお、ベアテの書いた草案が日本側に提案された1946年3月、日本側の担当者は「女性の権利だが、日本には女性が男性と同じ権利を持つ土壌はない。日本女性には適さない条文が目立つ」と当初は拒否したそうです(同書p216)。
 今でこそ、日本の女性は、日本の憲法に14条や24条があり、女性は男性と同等の権利を有することを当たり前のように感じていますが、そうではなかったのです。
 実は私はこの条文の「両性の本質的平等」という言葉がとても気に入っています。
 通常は「男女平等」という言葉が使われます。しかし、「男女平等」というとき、時として「平等とは言っても『男』が『女』の前に付いているので、男性の方が女性に優越するのだ」とか、あるいは「『同じものは同じように扱い、違うものは違うように扱う』というのが平等ということだから、男性と女性で体の構造や機能が違う以上、女性は男性とは違うように扱われて当然だ」という意見が聞かれます。
 「両性」という言葉は「女性」と「男性」との間の優劣を表現していません。また「本質的」という言葉は「身体的・生理的な違いはあっても、人間として等しく扱われる」という意味があります。従って、24条に存在しているこの言葉は人間の本質をとらえたとても美しい表現だと、私は思うのです。
 ちなみに、この「両性の本質的平等」という言葉は戦前の日本にはなかったもので、ベアテさんが英語で「the essential equality of the sexes」と書いた草案がなければ、未だに日本語として存在しなかったのではないかと思います。