労働者の生活と健康、そして権利を守る一番基本の法律は、労働基準法です。
 憲法27条の2項には「賃金、就業規則、休憩その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」と規定していますが、この法律こそが「労働基準法」(短く、労基法と言っています)なのです。
 ここでいう「勤労条件に関する基準」とは、労働者からみて「最低の基準」を意味するのであって、当事者間で決められる労働条件については、法律で最低の基準を定めて、その最低を下回らないように制限するという趣旨です。つまり、使用者にも労働者にも「契約の自由」はあるものの、勤労者の利益や権利を守るために、国家の権力によってその自由を制限するということなのです。
 このように国家が介入しているため、労基法13条では「この法律で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とする」と規定しています。このような効力を「私法的効果」と言っています。また労基法117条以下では、法令に違反した場合の罰則を定めています。例えば、労基法5条(強制労働の禁止)に違反した場合には、使用者に対し1年以上10年以下の懲役又は20万円以上300万円以下の罰金に処せられます。このような効力を「刑事的効果」とも言っています。
 そして労基法を遵守させるための重要な行政機関として、労基法101条では「労働基準監督官は事業場、寄宿舎その他の付属施設に臨検し、帳簿及び書類の提出を求め、または使用者もしくは労働者に対して尋問を行うことができる」とし、さらに同法102条では「労働基準監督官は、この法律違反の罪について刑事訴訟法に規定する司法警察官の職務を行う」として、非常に強い権限を与えているのです。
 このような労働者のための規制は、労働者にとっては真に必要なのですが、どうやら安倍首相には邪魔なようです。
 2017年3月9日、規制改革推進会議は、長時間労働などに対する監督を強化するために、労働基準監督業務に民間活用を行うことを検討することとし、それに向けて、会議の作業部会として「労働基準監督業務の民間活用タスクフォース」(主査八代尚宏昭和女子大学グローバルビジネス学部特命教授)を設置することを決定しました。
規制改革推進会議とは、以前にあった「総合規制改革会議」や「規制改革会議」を引き次ぐ組織で、2016年9月2日、第2次安倍内閣により設立が閣議決定されたものです。内閣府設置法及び内閣府本府組織令に基づき「経済に関する基本的かつ重要な政策に関する施策を推進する観点から、内閣総理大臣の諮問に応じ、経済社会の構造改革を進める上で必要な規制の在り方の改革に関する基本的事項を総合的に調査審議すること」を目的としています。
 労働基準に関する規制を改革する必要が生じた場合には、本来は厚生労働省が主管になって調査提言を行うはずですが、国家戦略特区と同様に、直接、内閣総理大臣が規制緩和したり規制をなくすことができるようになるという仕組みです。
 このタスクフォースは、2017年3月16日から検討を開始し、同年5月8日、「労働基準監督業務の民間活用タスクフォース取りまとめ」を公表しました。なお、文書の詳細は内閣府のホームページに掲載されています。
 「検討の必要性」としては、第1に、労働基準監督署の実施する定期監督の実施率が、総事業場に対して3%程度に止まり十分な監督が行われると言い難いこと、第2に、定期監督実施対象の事業場の違反が約70%と高い割合で推移しているとし、第3に、今後「働き方改革実行計画」を踏まえ、罰則付きの時間外労働の上限を導入する労働基準法改正法案が提出されることになっており、更なる法規制の規制強化が求められることなどの状況において、「労働基準監督署における監督業務の実効性を確保するとともに、
労働基準監督官の業務を補完できるよう、民間活用の拡大を図ることが不可欠である」としています。
 さらに、「検討結果」として次のような提案をしています。

 「第1に、民間の受託者(入札により決定し、契約により、秘密保持や利益相反行為 ・信用失墜行為の禁止を義務付け)が、36協定未届事業場(就業規則作成義務のあ る事業場、同義務のない事業場)への自主点検票等(36協定の締結状況、労働時間 上限の遵守状況、就業規則の策定、労働条件明示の状況などの点検票等)の送付や回 答の取りまとめを行い、指導が必要と思われる事業場や回答のない事業場等について、 同意を得られた場合に、労務関係書類等の確認及び相談指導を実施すること、
  第2に、労働基準監督官は、これらに応じなかった事業場、及び、確認の結果、問 題があった事業場に必要な監督指導を実施する。」

 なお、八代主査は、民間委託先については、社会保険労務士、弁護士、公認会計士等の資格者や企業での労務経験が豊かな者等を考えているようですが、特に全国社会保険労務士連合会などは、この民間受託に非常に積極的で、「社会保険労務士の有する知識、能力、実務経験などが十分に発揮できるスキームとして評価されれば開業社会保険労務士約2万6000人が最大限対応する。」として、業務分野拡大に意欲を燃やしているようです。
 この提案を受け、規制改革推進会議は5月23日、「規制改革推進に関する第1次答申」において、36協定未届事業場であって就業規則作成義務のある事業場については平成32年度までに措置、それ以外の事業場については平成33年度以降に計画的に措置すること、とされました。
 しかし、この提案にはいくつかの問題点があり、とても賛同できるものではないと思います。
 第1に、労働基準監督官の人員不足の原因です。
 提案では、「総事業者数に対する定期監督業務の実施率が3%程度にとどまっており、事業場に対する十分な監督が行われていない」ということについてですが、タスクフォースは、そのような事態になった原因をまったく分析していません。
タスクフォースの資料でも明らかにされていますが、2016年における日本の労働基準監督官数は3241人ですが、雇用者1万人当たりの監督官の数は、ドイツ1.89人、イギリス0.93人、フランス0.74人に対し、日本では0.62人であり、先進国の中ではアメリカ0.28人に次ぐ低さで、ILOが求めている基準に達していません。 ちなみにILOが求める水準は、「労働監督官1人当たり最大労働者数1万人とすべき」(2006年11月ILO理事会)ということになっています。2016年における日本の労働者数は5757万人ですから、労働監督官は約5700人は最低必要だと言うことになります。
 ところで、日本ではILO基準に従って労働監督官が採用配置されているのでしょうか。タスクフォ-スの資料にも掲載されていますが、労働基準監督官の定員数は、平成28年度は3241人となっていて、到底ILO基準を満たすものではありません。他方で、労災補償業務を担当する事務官や労働安全衛生業務を担当する技官など他の労働基準監督署の職員の定員数は平成28年度1628名と、平成9年度の2323名から大きく減少しており、労働基準監督署全体の定員数は減少傾向になります。
少し古いデータですが、全労働総労働組合の「労働行政の現状」という資料によれば、2010年現在の労働基準監督官は約2941人(本省23人、労働局444人、労働基準監督署2474人。但し、実際に臨検監督を行う監督官は、管理職を除外するため2000人以下)ということです。おそらく2016年の実情においてもそれほど変化しているとは思えません。
 従って、事業所に赴いて定期監督などをきちんと実行するためには、労働監督官の数は、本省23人、労働局444人、労働基準監督署の管理者321人(署長のみ)の合計788人を除外して、定員数を考慮する必要があります。
 このように絶対的に人数が不足しているという現状であるにもかかわらず、厚生労働省は労働基準監督官の採用数を200人程度に絞っている上、労働行政の職員数についても政府は新規採用定数を大きく制限抑制し、事務官や技官の新規採用は廃止されています。
 このように労働基準監督官や労働行政にかかわる職員数を意図的に減らしておきながら、「総事業所数の定期監督実施割合が3%だ」などと非難するかのように主張することはまったく不誠実だとしか言えません。
 早急にILO基準を満たすために、政府は労働基準監督官及び事務官や技官の増員こそ実施すべきだと思います。
 第2には、労働基準監督官は公権力の行使にかかわるということです。
労基法101条や労基法102条でも明らかなように労働基準監督官の業務は、国家権力を背景にした公権力の行使も含みます。
 ILO第81号条約(工業及び商業における労働監督に関する条約)は、工業的事業場及び商業的事業場における労働監督制度の保持を義務付け(第1条)、監督職員は分限及び勤務条件について、身分の安定を保障され、かつ政府の更迭及び不当な外部からの影響と無関係である公務員でなければならないとしている(第6条)。また、労働監督官は、監督対象事業場に立ち入る権限、調査・検査・尋問を行う権限を有するものとしている(第12条)。すなわち、公平中立に業務に当たることのできる公務員が、労働監督業務を行うために必要な権限や強制力を背景にして労働監督業務にあたるべきとされている。この条約は日本も批准しています。
 つまり、労働基準監督官及び監督署の業務は、公務員たる労働監督職員が行うべきであり、民間人が行うことができません。
このような大原則に対して、タスクフォ-スの委員から「定期監督業務の立ち入り調査は強制ではなく、原則として事業所の任意によるのであれば。定期監督業務の一部を民間業者に委託してもいいのではないか」と発言しました。要するに規制の緩和ですね。
 この意見に対し厚生労働省は、次のように言っています。

「労働基準監督官による立入調査の場合であってもまずは協力を要請することが一般的である。但し、事業主がこのような任意の調査に応じない場合には、監督官は、その場で労働基準法に基づき携帯している監督官証票を示した上で、相手方の同意なく立ち入る権限を有している。これに対して虚偽の陳述をする、帳簿書類を提出しないなどした者は、同法に基づく罰則の対象になる。
委託を受けた民間事業者が任意の調査をおこない、問題がある場合に監督官に取り次ぐ場合、調査から監督官による指導までタイムラグが生じることから、その間に証拠帳簿の隠蔽など不適切な行為がなされる可能性がある。また迅速な労働者保護が行えない蓋然性が高い。
監督官が行っている業務のコアな部分は、やはり誰かにご協力いただくということにはならない部分である。」

 この厚生労働省の意見は法律に基づいた正当なものであると思います。
 第3に、民間の受託者として社会保険労務士が想定されていることです。
 社労士の大部分は、企業を顧客先として、あるいは企業内の従業員として、その労務管理や社会保険・労働保険の諸手続を取り扱っているのが普通です。そのため社労士の中には「労働基準監督官対策」を業務としている人もいますし、企業が従業員と労働トラブルになった際には、企業側に立ってこれを補助する社労士もいます。
 なお2015年には愛知県清洲市の社労士が「社員をうつにする方法」「モンスター社員を解雇する方法」などの記事を自身のブログに掲載し、2015年12月28日には愛知県社労士会から、社労士に対する信用を失墜させるものとして3年間の会員権活動停止処分と退会勧告を受けたという事件がありました。
まあ、弁護士でも企業の顧問となって使用者側の利益を優先する立場の人もいるので、そういう意味では、社会保険労務士であろうと、弁護士であろうと、公認会計士であろうと民間委託を受けることはふさわしくないと言うべきだと思います。
 なお、私の所属している日本労働弁護団は、「取りまとめ及び第1次答申が示す労働基準監督業務の民間活用等に関する措置を実施することに反対し、実効的かつ適切な労働監督行政が行われるよう、少なくともILO基準を満たすように労働基準監督官を増員することを求めるものである。」としています。