大正11年(1922年)生まれの父はもうずいぶん前に施設で亡くなったが、面会に行くときには、私は父のためにいろいろな昔の歌を歌った。
 父はおとなしい性格なので、自分からは何も言わないが、この歌を歌っているときには、途中からかならず一人で歌ったものだった。というのは、私はせいぜい3番までしか覚えていなかったので、「あとは知らない」と投げ出すと、父は嬉しそうに「俺は知ってる」という顔をして続きを歌ってくれた。
 それがこの歌である。
 今は、母もこの歌をほぼ最後まで歌い、その記憶力にまさに「脱帽」である。

「籠の鳥」 作詞:千野かおる、作曲:鳥取春陽

 1(女) 逢いたさ見たさに 怖さを忘れ
       暗い夜道を ただ一人
 2(男) 逢いに来たのに なぜ出て逢わぬ
       僕の呼ぶ声 忘れたか
 3(女) あなたの呼ぶ声 忘れはせぬが
       出るに出られぬ 籠の鳥
 4(男) 籠の鳥でも 智恵ある鳥は
       人目忍んで 逢いに来る
 5(女) 人目忍べば 世間の人は
       怪しい女と 指ささん
 6(男) 怪しい女と 指さされても
       誠心(まごころ) こめた仲じゃもの
 7(女) 指をさされちゃ 困るよ妾(わたし)
       だから妾(わたし)は 籠の鳥
 8(男) 世間の人よ 笑わば笑え
       共に恋した 仲じゃもの
 9(女) 共に恋した 二人が仲も
       今は逢うさえ ままならぬ
10(男) ままにならぬは 浮世の定め
       無理に逢うのが 恋じゃもの
11(女) 逢(お)うて話して 別れるときは
       いつか涙が おちてくる
12(男) おちる涙は 真か嘘か
       女心は わからない
13(男女)嘘に涙は 出されぬものを
       ほんに悲しい 籠の鳥

 説明によれば、この歌は、大正末期から昭和にかけて一世を風靡した大ヒットした歌謡で、大正11年(1922年)にレコードに吹き込まれ、大正13年(1924年)には悲恋物語『籠の鳥』として映画化されたと言う。
 私としては、なぜ彼女は「籠の鳥」状態になっていたか、というところに大いに関心があるのだが、その理由は歌詞からは分からない。
 大正11年(1922年)から13年(1924年)というと、日本史では「工場法」が明治44年(1911年)に制定され、大正5年(1916年)に施行された後の時代である。
 明治時代には強力な家父長的家族制度があり、家族は家長の所有物とされていた。貧しい農家などにおいては、家長は子供、特に娘を支配する権利はあるものの扶養義務を果たすことができない状態だった。そのため家長は子供を人身売買的な前借り年期奉公契約として差し出した。これにより雇主は子供の使用権を家長から譲り受け、24時間365日、労働に従事させた。
 年期契約で入った者は、住み込みで、雇用期間中は雇主の命令に絶対服従を誓わされ、もし契約期間を満了せずに中途でやめるときは、前借金は利子を付して返却せねばならず、また逃亡すれば、親は責任をもって探し出して雇い主に届けねばならぬという一札を入れたという。
 住込みの場所は「寄宿舎」と呼ばれ、寄宿舎は女性労働者を遠方から募集するために必要だとして設けられたが、もともと福利施設ではなく、ただ収容するだけの場所とされていた。女性労働者を工場に縛り付けて深夜労働をさせるためには、もっとも便利な方法だった、という。寄宿舎には夜になると逃亡を防ぐために外から鍵が掛けられた。明治32年(1899年)には愛知県の繊維工場で火事があった際、女工が逃げられずに21名焼死したという事件も起きたが、鍵は昭和の初めまで使用された。
 女工の間では、「寄宿ながれて工場が焼けて、門番コレラで死ねば良い」とか「籠の鳥より監獄よりも寄宿舎住まいはなお辛い」という歌も歌われたという。
 「籠の鳥」というこの歌が、もしかしてこのような状況にある女性について歌ったものならば、なんとも悲しい歌である。