トランスジェンダーの問題は、世界的な運動になっており、かつ日常生活に密接に影響する問題なので、具体的に議論しないと、解決の方向性が見えてこないと思う。
 このたび、イタリアでトランス女性がスポーツ競技に参加したことが結構話題になっていたので、少し調べて見た。

1,ヴェレンティーナのこと

 2023年3月12日、イタリアのマルケ州の州都アンコーナで、「室内競技マスターズチャンピオンシップ」が開催され、50歳から54歳までの女子を対象とする200メートル走の競技が行われた。
 優勝したのは、ヴァレンティーナ・ペトリロというトランス女性だった。しかし,観客は2位のクリスティーナ・サヌッリに対して「BRAVA!!(素晴らしい)」と声を上げて賞賛し拍手をした。実際サヌッリの記録は「女性」としては新記録だったので、ペトリロがいなければ、まさに優勝に値するものだった。サヌッリはペトリロと一緒に表彰台に上がったが、下りた後に「ペトリロの体が男性なので不平等を感じた。私達は今、不当な差別を受けている。この競技は不公正だ」と吐露したという。映像で見るとペトリロは2位や3位の女性に比べて頭ひとつ位身長も高く、体格はまさに男性である。なお、ネット情報によれば、ペトリロは「8度目の金メダル」とされているが、参加履歴が分からない。
 ここまでのことであれば、主催者がトランス女性の参加を認めたときから予想できたことではある。
 実は、この競技において、ペトリロは女性専用の更衣室ではなく、ペトリロ専用の更衣室を与えられていた。しかし、競技の後にペトリロは「女性専用の更衣室を使えなかったのは、ナチズムだ。ヒトラーが1936年にユダヤ人に対して差別したのと同じレベルだ。アンコーナでは、恐ろしい体験をした。これは公正ではない。伝染病で隔離されたのと同じだ」という趣旨の発言をしたという。なお、1936年とは、ベルリンオリンピックの際、ヒトラーがユダヤ人差別をしたことを指すと思われる。
 シス女性がトランス女性に対して「私達のスペースの更衣室に入らないで」という要求をしたことは「ナチのユダヤ人迫害と同じだ」という批判である。実は、このような批判の仕方はペトリロだけではない。

 ところでペトリロはイタリアでは有名人らしい。

 イタリアには「5ナノモル~トランス女性のオリンピックドリーム」という映画があるが、「彼」はその主人公である。
 この映画の紹介によれば、ペトリロは、1973年10月に男性として生まれ、名前は「ファブリッツィオ」だった。バレー、サッカーなどのスポーツに夢中で、11歳のときにナポリ近郊の町の大会で1位になったのを契機に,特別なトレーニングにはげむようになった。14歳の時に眼病のスターガルト症候群に罹患し、20歳から視覚障害をもつ男性アスリートして競技会に参加するようになった。その後、視覚障害者5人制サッカーチーム等に所属し、2014年には視覚障害5人制サッカーのイタリア代表チームに所属した。2015年9月から視覚障害者枠陸上競技に参加し、3年間で11の国内タイトルを獲得した。2018年10月のイタリアのイェーゾロ(イタリア、ベネト州のベネツィア近くのリゾート地)で開催された選手権大会には男性枠で参加した。
 「彼」の男性枠での参加はこれが最後だった。「彼」は「欠損した男性」ではなく、いわゆる典型的な男性としてのシンボル(仕事や家族、スポーツ選手としての成功)を持っていたと紹介されている。
 しかし、成績が振るわなくなったので引退を考えていた頃、「グルッポ・トランス」という活動団体に会い、トランス女性となってアスリートとして再生することを決意し、キャリアの締めくくりとして女性になることを決断した。そして、名前も「ファブリッツィオ」から「ヴァレンティーナ」に変えた。
2019年1月からホルモン治療を開始し、1ヶ月後にテストステロン値が、2015年国際オリンピックの委員会の基準値に達し、女性参加資格を得た。性適合手術は受けていない。
 2019年から女性枠で走るようになった。このとき「彼女」は、46歳だった。
 2020年9月のイタリアのイェーゾロで開催されたパラリンピック公式戦女性枠で出場し、100M、200M、400Mの競技で金メダルを獲得した。そのため東京パラリンピックの代表選手となった。しかし、イタリア政府は、2021年9月の東京パラリンピックの女性枠への出場を阻止したという。その理由は、テストステロン値が基準を満たしていなかったらしい。

2,オリンピック・パラリンピックの参加基準

 オリンピックでは、2000年にIOCが、女性選手の性別を確認する検査を廃止し、2004年に、トランス女性が参加できる一定の基準を策定した。なお、従来は、男性が女性として参加することを禁止していたため、女性が参加するためには医師による厳しい身体検査があったが、廃止されたという。
 その後、参加基準は数回改定され、日本スポーツ協会の資料によれば、2019年12月現在では以下のようになっている。
第1に、性自認の宣言(但し、宣言後4年間は変更不可)
 第2に、トランス女性(MtF)では、出場前最低1年間血中テストステロンの濃度レベルが1リットル当たり10mml以下であること。女性カテゴリーで競技を希望する期間中を通じてテストステロン濃度が1リットル当たり10ナノモル以下であること。
 なお、性自認が男性のトランス男性(FtM)は参加制限はない。

 以上のとおり、トランス女性については、「性自認」は宣言のみで足り、「性自認」を客観的に検証しないこと、また過去1年間の血中のテストステロン濃度のみで判断されるので、それ以前のテストステロンが体内で分泌されていたことは無視されていることが,問題点となった。
 いうまでもなくテストステロンは、男性ホルモンのことであり、このホルモンは筋肉量と強度を保ち、骨密度を高め、脂肪細胞を縮小させるなどの作用があり、また体毛,声変わりなど男性の2次性徴を発現させ、いわゆる男らしい身体を作る作用をもつ。妊娠6週目から24週目にかけて胎児にテストステロンが多く分泌され、体内の男性内生殖器の形成作用がある、また、いわゆる性欲や性衝動は,テストステロンの作用だとも言われている。なお、女性も男性の5%から10%と少量ではあるが、テストステロンを分泌しているという。
 またテストステロンは、ドーピング検査の対象物質であるが、ドーピングとは「スポーツにおいて禁止されている物質や方法によって競技能力を高め,意図的に自分だけが優位に立ち勝利を得ようとする行為、意図的であるかどうかにかかわらずルールに反する様々な競技能力を高める方法や、それらを隠すこともドーピングという」とされている。
 従って、ドーピングがあればフエアなスポーツが成立しなくなると言われている。

3,トランス男性について

 上記のとおりトランス男性については女性枠への参加は全く制限されていない。
 このことは、第1に、トランス男性の性自認が女性であってもまったく問題視されていないこと、第2に、トランス男性となって男性ホルモン投与の治療を受けていても問題視されないということである。
 実際トランス男性が男性枠で競技に参加しようとして、その参加を制限されたという話題はない(と思う)。トランス男性は、そもそも生来的に骨格や筋肉において女性の身体を持っているので、男性枠での参加は身体能力において劣るからであろう。
 日本の女子サッカーチーム「なでしこジャパン」に所属していた女性の何人かは、引退後、トランス男性となって男性として社会生活をおくっているが、そのうち数名は「女サッカーチーム」に所属してプレーを続けているそうである。
 結局、トランス男性が女性枠に参加するには、性自認を問われることもなく、テストステロン値も問われることもないという状況であるから、「トランスジェンダー」とされる最も重要な指標である「性自認」は、問題とされないということが分かる。
 このようにスポ-ツの女性枠には、「トランス女性」,「トランス男性」、「シス女性」の3者が参加可能なのであり、上記2種類については、長年あるいは数年にわたり男性ホルモンである「テストステロン」を分泌または投与されてきたことが特徴的である。