- Piove sempre sul bagnato
濡れたところにはいつも雨が降る
「すでに雨が降って濡れているのに、さらに、いつもその場所に雨が降る、っていうことだから、不運な人はいつも不運という残念な意味になるね。」
「でも、それって悲しすぎるよね。雨が降らない場所にこそ、雨が降って欲しいしね。」
「でも、日本にも、『泣きっ面に蜂』とか『弱り目に祟り目』ということわざもあるから、やっぱり、人間には同じようなことがあるね。」
「イタリアでは、このことわざは、どのように理解されているのだろう。」
- Lontano dagli occhi, lontano dal cuore, e tu sei lontana da me
目から遠くなる、心から遠くなる、君は私から遠くなる
「これは、1969年のサンレモ音楽祭で2位をとった歌で、セルジオ・エンドリゴが歌った。歌の題名は lontano dagli occhiといって、まさに Lontano dagli occhi ,lontano dal cuore(会わないと心も遠ざかる)、ということわざのままの題だね。
日本でも良く似たことわざに『去る者日々に疎し』というのがある。また、この歌の邦題は『瞳はるか』という。
この歌には、Per uno che torna, E ti porta una rosa ,mille si sono scordati di te
(1人の男が戻ってきて君に1輪のバラを持ってきたとしても、1000人の人があなたのことを忘れている)という言葉があるから、離れてしまえば、ほとんど忘れられるということだね。」
「そうだね。遠恋は結構難しいよね。このことわざと同じく、目と心を使ったことわざもあるよ。
Occhio non vede, cuore non duole(目は見ず、心は痛まない)と言って、直訳では、目も見なければ心も痛まない、ということだけど、日本でも『知らぬが仏』という良く似たことわざもあるけどね。」
「例えば、相手が浮気したとしても、聞かなければ悲しまないで済むというようなことだね。嫌なことは知りたくないという本音をあらわしたのだね。でもそれは結局、相手に対して関心がないってことだね。」
「でも2つのことわざに共通するのは、好きなら離れちゃいけないということかな。」
- Mal comune mezzo gaudio
共有された苦しみ、半分の喜び
「この直訳だけだと、意味が分かりにくいね。共有された苦しみとは、1人の苦しみを2人で分け合うという意味ではなくて、2人が同じ苦しみを経験するということだと解釈する方がいいかも知れない。gaudio とは歓喜、悦楽という意味なので、同じ苦しみを味わえば、喜びもある、と言う意味だろう。イタリア人の説明によれば、他人が同じ苦しみを経験すると、自分も嬉しくなるという意味で、日本で言えば、他人の不幸を喜びという意味もあるみたいだ。」
「実は、最近のイタリアの報道(2024年1月)で、
Mantova e le rivali in coro: mal comune mezzo gaudio.(マントヴァとライバルチームは、同じく叫んだ、同じ苦しみと半分の喜び )という記事があったよ。
その記事の内容は、
"L' Acm ha perso un' occasione ma non il vantaggio. Padova e Triestina si mangiano le mani per? sono sollevate dal restare in corsa.
(マントヴァはチャンスを失っても優位にたった。パドバとトリエステはお互いに悔しい思いをしたが、競技に残ることができている。)
「イタリアのサッカーのシステムは難しくて分からないけど、レーガ・プロというセリエとは少し格下のAグループで試合が行われて、マントヴァ、パドヴァ、トリエステの3つのチームが競技に残ったので大喜びした。つまり3つのチームは優勝の機会を逃したが、他の2チームも同じように勝ち進めないことになったからだ、というらしい。(Nella lotta al vertice del girone A di Lega Pro il giorno successivo alla 21esima giornata trascorre all' insegna del coro unanime “mal comune mezzo gaudio”. Mantova, Padova e Triestina, infatti, vivono le stesse sensazioni: da un lato, ognuna è consapevole di aver buttato via un' occasione per avvicinarsi al proprio obiettivo, dall' altro c'è la consolazione che le rivali non ne abbiano approfittato.)
「日本でもあるよね、例えば、雪で道が滑りやすくなって自分が転んだときに、他人も雪で滑って転んだときに、その人がかわいそうだとも思うけど、ああ、自分と同じだと思って、なにか笑えちゃうよね。そんなことを言っているのかな。」
- Quello lavoro domestico e' l'unico lavoro da schiavo che esiste ancora oggi nella societa capitalista.
家事労働は、資本主義社会内部にいまだ存在する唯一の奴隷労働である
「これは、ロッタ・フェミニスタ(Lotta Femminista:フェミニストの闘い)が1971年7月に出した『地域社会における主婦の闘いのための綱領的宣言』の一部だよ。
なお、この宣言を報告してくれた山森亮教授は英語で標題の名言を読んだので、イタリア語の原文は、実は私にも分かっていないので、許して欲しい。なので、標題の日本語はイタリア人の友人に訳してもらったものだ。
ロッタ・フェミニスタというはイタリアのフェミニズム運動の一つで、マリアローザ・ダッラコスタMariarosa Dalla Costaという女性が中心となっている。
彼女は、1943年にトレヴィーゾで生まれ、1972年には国際フェミニスト協会の共同設立者となり、家事への賃金を要求する国際運動の初期の活動家だという。
彼女の代表作は『家事労働に賃金を』という標題で、日本でも出版されている。日本でもとても有名で日本の学者・研究者も彼女の著作を研究している。」
「その宣言では、何を言ったの?」
「山森教授の(生きていることは労働だ」という論文では、『いわゆる家庭内労働が女性に自然に帰属する属性であるという考えを私達女性は拒否する。それゆえ、主婦への賃金の支払のような目標を拒否する。反対に、はっきりと言おう。家の掃除、洗濯、アイロンがけ、裁縫、料理、子どもの世話、年寄りと病人の介護、これら女性によって今まで行われてきたすべての労働は、他と同様の労働であると。これらは男性によっても女性によっても等しく担われうるし、家庭というゲットーに結びつけられる必然性はない』と紹介されているよ。」
「じゃ、主婦のやった家事労働の賃金は誰に請求するのかな。」
「宣言に書いている要求は、そういうのじゃないんだ。
a家々の掃除のすべてはやりたいと思う男女によって担われるべきである。そしてそれは地方自治体あるいは国によって支払われなければならない。
b男女とも洗濯とアイロンがけのできる完全無料のランドリー・サービスがある社会センターをすべての地域に作ること。
cそこで働く男女が国ないし自治体から支払われ、食べたい人誰もが無料で食べることができる地域食堂を作ること、などの要求だったという。」
「なるほど、男性も従来家庭で行っていた家事を女性と等しく遂行することや、家事の外部化は大切だね。また、そういう労働については国や地方自治体が財政的に保障するという考え方も先進的だね。今、日本でも男女の役割分担を見直せという運動があるけど、そういう運動はもうずっと昔からあったんだね」
「そうなんだよ、この運動には、まずもって男性が意識を変えることが必要だけど、日本の男性の意識はなかなか変わらないからね。それに家事の外部化というのは、日本では、例えばコインランドリーでの洗濯の場合、使用料金を支払うことになるよね。コスタは、そうではなく、コンランドリーの使用料は国や自治体が負担するべきだという意見なんだ。」
「それに保育の費用などもそうだね。改善しなければいけないことは、たくさんあるよね。」