- AMORE ET STUDIO ELUCIDANDAE,
veritatis haec subscripta disputabuntur Vuittenbergae, Praesidente R. P. Martino Luther, Artium et S. Theologiae Magistro eiusdemque ibidem lectore Ordinatio. Quare petit, ut qui non possunt verbis praesentes nobiscum disceptare agant id literis absentes. In nomine domini nostri Iesu Christi.Amen.
真理への愛と、それを明らかにしようとする願いから、ヴィッテンベルクにおいて、文学修士、神学修士、同地の神学正教授である司祭マルティン・ルター司会のもとに、以下のしるされたことについて討論することにする。したがって、出席して私たちと口頭で論議することのできない者は、欠席のまま書面でこれをしていただくようにお願いする。私たちの主イエス・キリストの御名において、アーメン。
「少し長いが、これはかの有名なドイツのルターの95箇条の論題(テーゼ)だよ。
高校の世界史でも習うほど有名な出来事で、ルターが1517年10月31日に、自身が神学教授を努めているヴィッテンベルグの教会の扉に張り出したとされている。内容は、贖宥状に関する批判的なもので、その後の、カトリックとプロテスタントを分裂させ、宗教改革の契機となったとして有名だね。ただ、実際には、ラテン語で書いてあるので、一般市民にはほとんど理解されなかったそうだ。」
「95箇条の討論の議題全部をラテン語で書いたんだね。でもドイツ語でないと一般市民は理解できないなら、どうしてルターは、このようなことをしたのかな?」
「ルターがこのような行動にでたのは、特別なことではなく、当時の神学者が神学について公開討論を申し入れる場合には、このようなラテン語による文書を掲示板に貼って議題を事前に提示するという手順があったそうだ。だから、ルターは神学という学問上の討論を呼びかけたに過ぎないというのが動機だったと言われている。」
「その後、どうなったの?」
「この文書の写しは、マインツ大司教アルブレヒトを通じて、ローマ教皇レオ10世に回送されたそうだ。しかし、レオ10世は、神学者ではないので、この95箇条のテーゼに対して自分の意見を述べることができなかったうえ、アウグスティヌス修道会と贖宥状の販売に熱心なドメニコ修道会との喧嘩という程度の理解だったという。そもそもレオ10世は、贖宥状を発行している元締めなんだから、簡単には贖宥状の発行を中止することなどしなかったそうだよ。」
「つまりルターとしては贖宥状については単なる神学上の問題だと思っていたし、レオ10世も大事だとは思っていなかったが、結局のところ宗教改革という歴史的な大きな転換点となったんだね。歴史って面白いねえ」
「あっ、忘れていた。標題のラテン語のイタリア語版も紹介しておくね。聞いたところによると、イタリア人は学校でラテン語の学習もするので、ラテン語は読めるんだって。うらやましいね。もちろん私はラテン語なんで全然分からないけどね。
Le tesi che seguono, il cui fine ? quello di chiarire la verit?, formeranno oggetto di un dibattito a Wittenberg, condotto dal R. P. Martin Lutero, Maestro di Arti e di sacra Teologia, nonch? lettore ordinario di questa stessa disciplina in questa citt?. Egli invita tutti coloro che si troveranno nell'impossibilit? di parteciparvi, di inviare le loro osservazioni per iscritto.
Nel nome del nostro Signore Ges? Cristo.Amen.」
- Errant itaque indulgentiarum predicatores ii, qui dicunt per pape indulgentias hominem ab omni pena solvi et salvari. Quin nullam remittit animabus in purgatorio, quam in hac vita debuissent secundum Canones solvere. Si remissio ulla omnium omnino penarum potest alicui dari, certum est eam non nisi perfectissimis, ie. paucissimis, dari. Falli ob id necesse est maiorem partem populi per indifferentem illam et magnificam pene solute promissionem.
教皇の贖宥によって人間は全ての罪から赦免され、救われるというあの贖宥説教者たちは誤っている。教皇は、煉獄にある魂に対して赦免することはできない。もし全ての罪の赦免が誰かに与えられるならば、それはごく僅少な最も完全な人だけである。つまり、大部分の人は罰の免除についてのけじめない約束によって欺かれたことになる。
「これはルターの95箇条の論題のうち21番から24番までに書いてあることの要約だ。実をいうと、95箇条もあるし、キリスト教徒ではない私には、理解が不可能に近いが、この序文だけは理解したいと思って、抜き出してみたんだ。」
「では、どうしてこの条項を選んだの?」
「カトリックには7つの秘蹟というのがあって、その中に『赦し』というのがあるそうだ。具体的には『告解』と『悔悛』だという。つまり、神に対して自分の行った罪を告白し、これを悔いるならば、その罪に対する罰は軽減されるということらしい。だからルターの言い分は、贖宥状だけですべての罪が許され、あるいは罰が免除される訳ではない、と言うことらしい。」
「実は、昔の教科書では『免罪符』という言葉だったけど、今は『贖宥状』という言葉が多く使われているね。これはなぜだろう。」
「これも難しいことだけど、赦しの秘蹟によっても罪自体が無くなるわけではなく、罪に対する罰を受けなくても良いということになるらしいよ。だから誤解を避けるために免罪符と言う言葉を使わなくなったのではないかなぁ。良く知らないけど・・・
ところで、カトリックでは『煉獄』という概念があって、それは天国にも地獄でもない中間的な場所とされ、ここでは罪の償いとしての浄めの苦しみがあるが、この苦しみを減免するためにに祈りや秘蹟があり、許された者は天国に入るそうだ。ダンテの神曲に煉獄の様子が詳しく書いてあるよ。」
「でも、ダンテは1265年に生まれたから、ルターの95箇条は知らないよね。もし、ダンテが贖宥状のことを知ったら、どのように思うだろうか。」
「これも難しい質問だね。でも、贖宥状を買えば罪が許されるとか罰を受けなくても済むという考えは、どう見ても金持ちに有利な状況だね。貧乏人には実に不公平なことだよ。そもそもルターはこの煉獄という概念を否定したそうだよ。」
「へぇ、そうなの?ところで、どうでも良いことだけど、アニメ『鬼滅の刃』に煉獄杏寿郎という強い戦士がでてくるんだ。なぜ煉獄という姓にしたのか、調べて見ると、なんと、『カトリックの教理で罪を犯した死者の魂が天国に入る前に、火によって罪の浄化を受ける場所』と説明されているんだよ。だから煉獄杏寿郎には火を操る能力があったんだね。」
「確かに、火は不浄なものを焼き尽くす方法で浄化する、とも言われているから、あながち的外れとも言えないね。カトリックとは関係ないとは思うけど・・・。あ、忘れていた、21番から24番のイタリア語も紹介しておくね。
Sbagliano, perciò, quei predicatori che affermano che “per opera delle indulgenze papali l’ uomo è liberato da ogni pena e salvato“. Anzi, il papa non rimette alle anime del purgatorio nemmeno quelle pene che esse avrebbero dovuto scontare in questa vita in base al diritto canonico. Ammesso che a qualcuno possa essere concessa la remissione di tutte le pene, ciò avverrà solo per i più perfetti, cioè per pochissimi. Ne consegue inevitabilmente che la maggior parte del popolo resta ingannata dalla indiscriminata ed altisonante promessa del condono delle pene.
日本人にとってはラテン語も難しいね。」
- Il gioco non vale la candela
博打は蝋燭の価値もない
「博打では蝋燭も買えない、という文章で紹介されている。つまり、博打で稼いでも、博打でその稼ぎが消えていくことになって、最後にはなにも残らないという意味だね。ちなみに、valere という動詞は、~の価値がある、~と評価できる、有効である、などの意味だね。このvalereを使ったほかのことわざには、Contro la forza la ragion non vale. というのがある。力の前では理性は無力だと紹介されている。」
「日本には、『骨折り損のくたびれもうけ』という良く似たことわざがあるね。」
「でも蝋燭は価値のないものなのかな。停電など電気がつかないときには、それがないと困るんだけど」
「蝋燭の起源を調べると、古代エジプトでミイラを作るために蜜蝋が使われていたとか、ツタンカーメンの墓から燭台が発見されたとか、また紀元前3世紀のエトルリアの遺跡からは燭台の絵が出土したとも言われている。原始的な蝋燭は、蜜蜂の作った蝋、つまり蜜蝋だとされている。今のように電気のない時代には、この蜜蝋は高価なもで、教会での儀式などでは蝋燭は必需品だったし、また豪華な宮殿や城にあるシャンデリアは、蝋燭を光源としていた。18世紀になって石油パラフィンから蝋燭が作られるようになると大量生産ができるようになって、ようやく一般庶民の家庭に入ってきたそうだ。」
「じゃあ、人類は、蝋燭のおかげで文明を発展させることができたんだから、価値がないどころか人間にとって、不可欠なものだね。なぜ、こんなことわざができたんだろう。そうだ! イタリア人に聞いてみよう!」