8月9日は長崎が原爆を落とされた日である。この日、長崎市の平和公園では平和祈念式典が開催されている。

 そして従来から被爆者が「平和への誓い」を読み上げている。ただ、私とすれば「平和への誓い」は被爆者だけではなく、国民全員が誓うべきものではないかと思うが・・・

 報道によれば、被爆者の平均年令は86歳になっており、被爆の悲惨な事実を直接伝える人が少なくなっているという。今後、このような原爆の平和式典で被爆者が直接に挨拶をすることは今後難しくなるかもしれないと思う。

1,西岡 洋さん

 今年の2025年8月9日には被爆者代表の西岡洋さんが「平和への誓い:『平和につながる動きを止めてはいけない さらに前身を』」を読み上げた。

 以下、西岡さんの「平和への誓い」の全文を転載する。

  「1945年8月9日、私は爆心地から3,3キロの県立長崎中学校の校舎内で被爆しました。13歳の時でした。

 『敵大型2機、島原半島を西進中』という西部軍管区の放送を生徒が大声で職員室に向かって報告しているのを聞いてから、何分も経たないうちに敵機の爆音が聞こえてきたかと思うと、その音が急に大きくなりました。次の瞬間、身体(からだ)がすごい光に包まれ、私は「学校のテニスコートに爆弾が落とされた」と思い、小学生の時から訓練されていたとおり、目と耳を塞いだ姿勢を取り、床に伏せました。

 爆発の瞬間は、オレンジ色と黄色が混じったような光の海の中に一瞬全身が埋もれたような感覚でした。続いて、すさまじい爆風で窓ガラスが破壊され、私は部屋の隅に頭を抱えて転がり込みました。その上に級友が折り重なってきたため、その体重で息もできない有様(ありさま)でした。しかし私は級友たちの下敷きになったおかげで、無傷で済んだのです。級友たちはナイフのように尖(とが)った割れた窓ガラスが体に刺さり、血だらけになっていました。

 さらに外を見渡すと、家々は壊れているのに火災は全く起きておらず、煙すら上がっていないのに、浦上地区には大きな火柱が上がっている。一発の爆弾だったはずなのに広範囲に被害が及んでいるのはどうしてかと、不思議に思いました。

 その後、学校の防空壕(ごう)に2時間ほど避難していたでしょうか。もう大丈夫だろうと、帰宅の途についた道は避難してくる人たちであふれかえっていました。

 火傷(やけど)か切り傷なのかわからない血まみれの男性。顔から血を流している赤ちゃんを抱いて歩く母親。腕が切れて垂れ下がっているのではないかと思われる人。こういう人々が中川町から蛍茶屋の方向に群れをなして歩いてくるのです。薄暗い雲が長崎の空一面を覆い、辺りは夏の真昼だというのに、あたかも日食のようでした。

 こうして8月9日が過ぎ、戦争が終わりました。この爆弾が原子爆弾というものだと知らされたのは戦争終結後のことでしたが、原爆の恐怖はさらに続きました。それは原爆による後遺症です。爆心地付近にいたけれども、頑丈な塀で守られ、軽傷で済んだ人や、地下工場で仕事をしていて無傷で帰宅した人たちもいました。ところが、それらの幸運な人たちも、次第に歯茎から出血し、髪の毛が抜け落ちて次々に亡くなっていったのです。薬もなく、治療方法も分からず、戦争が終わったというのに原爆は目に見えない恐怖をもたらしたのです。

 昨年、私が所属する「日本被団協」がノーベル平和賞を受賞しました。これは私たちの活動が世界平和の確立に寄与していることが評価されたということに他なりません。そして、この受賞を契機として、世界中の人々が私たちを見てくれていることに大きな意義を感じました。

 平和に繋(つな)がるこの動きを絶対に止めてはいけない、さらに前進させよう、そして、仲間を増やしていくことが、私たちが目標とするところです。

 絶対に核兵器を使ってはならない、使ったらすべてがおしまいです。

 皆さん、この美しい地球を守りましょう。

令和7年8月9日
被爆者代表 西 岡 洋  」

  この発言だけでは、西岡さんが受けた被爆状況は十分には分からないが、原爆の後遺症があったと思われる。

  ところで、長崎の平和式典では、過去に女性の被爆者も「平和への誓い」の挨拶をしている。全文を掲げる。

2,岡 信子さん 

 2021年 平和への誓い:『命ある限り語り継ぐ』

「ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました。戦時下は貧しいながらも楽しい生活がありました。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまったのです。

 当時、16歳の私は、大阪第一陸軍病院大阪日本赤十字看護専門学校の学生で、大阪の大空襲で病院が爆撃されたため、8月に長崎に帰郷していました。長崎では、日本赤十字社の看護婦が内外地の陸・海軍病院へ派遣され、私たち看護学生は自宅待機中でした。8月9日、私は現在の住吉町の自宅で被爆して、爆風により左半身に怪我(けが)を負いました。

 被爆3日後、長崎県日赤支部より「キュウゴシュットウセヨ」との電報があり、新興善救護所へ動員されました。看護学生である私は、衛生兵や先輩看護婦の見様見真似(みようみまね)で救護に当たりました。3階建ての救護所には次々と被爆者が運ばれて、2階3階はすぐにいっぱいとなりました。亡くなる人も多く、戸板に乗せ女性2人で運動場まで運び出し、大きなトラックの荷台に角材を積み重ねるように遺体を投げ入れていました。解剖室へ運ばれる遺体もあり、胸から腹にわたりウジだらけになっている遺体を前に思わず逃げだそうとしました。その時、「それでも救護員か!」という衛生兵の声で我に返り頑張りました。

 不眠不休で救護に当たりながら、行方のわからない父のことが心配になり、私自身も脚の傷にウジがわき、キリで刺すように痛む中、早朝から人馬の亡きがらや、瓦礫(がれき)で道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては新興善へ戻ったりの繰り返しでした。大怪我をした父を時津(とぎつ)国民学校でやっと捜すことができました。「お父さん生きていた! 私、頑張って捜したよ!」と泣いて抱きつきました。

 父を捜す途中、両手でおなかから飛び出した内臓を抱えぼうぜんと立っている男性、片脚で黒焦げのまま壁に寄りかかっている人、首がちぎれた乳飲み子に最後のお乳を含ませようとする若い母親を見ました。道ノ尾救護所では、小さい弟をおぶった男の子が「汽車の切符を買ってください」と声を掛けてきました。「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟がどこにいるか分からない母親を捜しているのです。救護しながら、あの幼い兄弟を思い、胸が詰まりました。

 今年(2021年)1月に、被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が発効しました。核兵器廃絶への一人一人の小さな声が世界中の大きな声となり、若い世代の人たちがそれを受け継いでくれたからです。

 今、私は大学から依頼を受けて「語り継ぐ被爆体験」の講演を行っています。

 私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。

2021年(令和4年)8月9日
被爆者代表  岡 信子  」

  他の報道によれば、岡信子さんが平和の誓いを読み上げた当時、92歳で、過去最高齢の被爆者だったという。以下、共同通信の報道から、岡さんのことをまとめてみた。

 戦時中は学校の授業が受けられず、とにかく勉強がしたいと大阪にある日本赤十字の看護学校に入った。被爆当時16歳。実家でガラス片で左半身を負傷した。3日後、救護活動のため新興善国民学校に召集されたが、校舎はけが人であふれかえっており「治療らしい治療はできなかった」。薬品はほぼなく、煮沸した塩水で傷口に湧くうじを洗い流したという。

 父親を探すために他の救護所を歩いて回り、道中、女性の遺体の陰部をがれきで隠してあげようとする男性を見掛けた。やけどで皮膚が垂れ下がっていたため救護所へ行こうと声を掛けたが「僕はもうだめだから」と断られた。帰りに通り掛かると、男性は女性の方へ手を差し伸べたまま息絶えていた。2人の関係は分からなかったが、まだ温かい手を女性の手に重ねてあげた。戦後はひどい頭痛や吐き気に襲われ、勤務する病院のトイレで倒れていたこともある。だが当時を思い出すのも嫌で周りには被爆者だと明かさなかった。継承活動を始めたのは、約8年前の新聞社の取材がきっかけだ。

  今は、「証言など歴史の破片を一つ一つ集めることで、全体像に近づける」との思いで講演へ出向く。昨年、体験記を書き、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に寄せた。最後の段落に「可能ならば平和祈念式典に出席してみたい」とつづった。今回、自ら被爆者代表に応募したのは「人生最後の片付け」との思いからだ。

 若い世代には、平和と思える今日の背景に多くの被爆者の死や苦労があることを忘れてほしくない。だからこそ原爆のむごさや核兵器廃絶を訴え続ける。「9日を最後と思わずに、これからもどこまでも行きます」とのことである。

  ところで、岡信子さんの「平和の誓い」の読み上げについては後日談があり、2021年10月21日に長崎新聞に掲載されていた。以下、全文を転載する。

 記事の表題は、「がん告白、壮絶な被爆体験「一言でも後世に」 岡さん、医師の孫へ語り継ぐ」である。

「今年の長崎原爆の日(8月9日)の平和祈念式典を機に、原爆投下後に救護所となった新興善国民学校で活動した医師の記憶が、孫に受け継がれた。看護学生として救護所で活動した被爆者の岡信子さん(92)が「平和への誓い」で経験を明かしたのがきっかけ。岡さんは「祖父のことを知りたい」と求める医師の孫と面会。自身にがんが見つかったことを告白し、「一言でも後世に残したい」と壮絶な体験を伝えた。孫は長崎市の三浦紀子さん(66)。祖父寛次さんは当時、興善町に「三浦医院」を構える開業医で、原爆投下後、リヤカーで医療器具を救護所に運び込んで被爆者を治療したという。しかし、生前、当時の経験を家族に語ることはなかった。

 市などによると、新興善国民学校には最も多くの負傷者が集まり、被爆後の8月17~31日には約8千人が治療を受けたという。1階に外来診察室があり、2、3階に患者が収容された。市医師会や海軍などから医師らが派遣されたというが、従事者の人数は記録が残っていない。

 紀子さんは、岡さんが被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げたことを報じる新聞記事を読み、寛次さんが壮絶な現場で治療を続けたことを知った。少しでも知りたいと岡さんとの面会を望んだ。

 9月下旬。市内で紀子さんと顔を合わせた岡さんは「三浦先生のお名前は記憶にある」と証言。ある時、被爆者の体からウジを取るためのピンセットを借りに行った出来事を明かした。いったん「数がないからだめだ」と断られたものの、その後、「さっき借りに来たのは誰だったかな」と持ってきてくれた、と振り返った。紀子さんは「それは、おじいちゃんらしい」と目を細めた。

 寛次さんは紀子さんが中学生の時、88歳で死去。救護所で被爆者を治療したことは親戚から聞いたことがあったが、本人は生前何も語らなかった。もともと寡黙だった祖父。「私が聞けば教えてくれたと思う。年を重ね、『聞いておけばよかった』と後悔している」と紀子さんは語る。

 治療らしい治療はできないにもかかわらず、次々と負傷者が運び込まれ、救護所は「戦場そのものだった」と岡さん。自身も当初は被爆体験について「思い出したくない」と語らなかったことから、生前多くを語らなかった寛次さんにも理解を示した。その上で、「他人のことを考える余裕もない状況下で、三浦先生は人を助けようという気持ちが強かったはず。すばらしいこと」とたたえた。

 岡さんは、がんが既に転移して手術ができない状態であることを説明。「一日でも長く生きて、少しでも後世に残していきたいという気持ちでいっぱい。三浦先生のお孫さんに出会えて、当時を思い出せたことも何かの縁だと思える」と紀子さんに語り掛けた。

 「名前を覚えてもらっていただけで十分。おじいちゃんが携わった現場を少しでも知ることができた」。紀子さんは、祖父が体験したであろう原爆の惨状を伝える岡さんの言葉を、孫として胸に刻んだ。

   なお、岡信子さんは2021年11月4日午前、肺がんのため、長崎市の病院で死去した。93歳だった。平和の誓いを読み上げたわずか3ヶ月後のことである。