祈念式典では,被爆者が平和の誓いを読み上げているが、その中に少数派ではあるが、女性が何人かいる。

 おそらく女性の話は生活に密着した具体的な話が多いと(勝手に)思うので、紹介していきたい。実は長崎新聞の「平和への誓い:ピースサイト」に歴代の平和の誓いを述べた人々が紹介されているので、これをそのまま全文で掲載する。私が要約すると、きっと大事な文章を無視してしまうというおそれがあるからである。

1,東海ムツ子さん

 2002年 平和への誓い:『恒久平和実現を訴え』

「1945年(昭和20年)8月9日、当時私は11歳で川平町に住み、西浦上国民学校の5年生でありました。同校は川平、滑石、西浦上の三校舎で分散授業をしており、当日は午後からの授業となり、樹齢三百年余りの「千茶(ちちゃ)の木」という大きな木の下で国取り遊びをしておりましたところ、突然ピカーッとせん光が走りました。のちに原子爆弾のことを「ピカ・ドン」という呼称で呼ばれるようになりましたが、私の記憶にはドーンという音はなくピカーッという光だけが残っております。

 急いで家の裏に掘られた横穴式の防空ごうの中に逃げ込み、どのくらいの時間が過ぎたのかわかりませんが、外に出てみると辺り一面建物は倒れ、物は吹き飛び、空は暗く、黒い油雨が降り、あちらこちらには火の手があがっておりました。私の母校西浦上国民学校の校舎は爆風で押しつぶされ、4名の教師と、136名の生徒たちが犠牲となりました。

当時西浦上国民学校の教師だった岩本喜十先生の遺作の中に

  屍の重なる中を灼け爛れ まだ命ある友を運びぬ

  校庭に爆死の友を吾は焼き 髪逆立てて友は焼かれき

 このような詩があり、今も私の脳裏に焼き付いて忘れることができません。

 私の母のたった一人の弟は、長崎の寺町から道の尾の叔母の家へ、疎開荷物をリヤカーに積み移動中の出来事でした。時間的に見て大橋付近で被災しただろうと推測されたので、親せき一同が茂里町から大橋一帯にかけ、焼け焦げた遺体と異臭の漂う中、浦上川沿いを中心にうつぶせになった屍(しかばね)を表返し、両手を合わせ祈りながら一生懸命に捜しましたが、何一つ手がかりとなるものは見つかりませんでした。

 戦争とはいえ、アメリカによる、たった一発の原子爆弾のために幾多の尊い命が奪い去られ、万物すべてが灰と化し、57年目を迎えた今も原爆症で、心身共に苦しめられている人がたくさんいることは現実の姿なのです。

 今なお、世界には、核の時代へと移行し、核保有、核実験、テロによる惨事、戦争による犠牲者と不幸は絶えません。この不幸の芽を摘みとるためにも、私たち被爆者は、わが国における非核三原則の法制化を早急に進めながら、世界の「核兵器廃絶」を提唱し、私たちが体験したような悲劇が二度と起こらないよう、平和な明るい世界が一日も早く訪れることを日夜念じ、また祈り「核のない世界平和実現」のために努力していくことをここに誓います。

平成14年8月9日
被爆者代表 東海ムツ子   」

2,山崎榮子さん

 2003年 平和への誓い:『命の限り語り続ける』

 皆さん、私の話(手話)を聞いてください。

 私は、生まれた時から耳が聞こえない、言葉が話せないろうあ者です。

 昭和20年8月9日、一番、おしゃれをしたい年ごろの18歳でした。

 その日、私は、爆心地から北に六キロほどのところの疎開先の時津町で、バラックの家を建てる両親の手伝いをしていました。

 11時ごろ、少し疲れ横になった時、突然目の前が明るくなり、オレンジ色の光を放って広がるものが見え、直後にものすごい勢いで床にたたきつけられました。

 いったいなにが起きたのか、その時は恐怖よりも驚きのほうが大きかったのです。

 夕方、両親と私は山里町の自宅へ戻ることにしました。家には3歳年上の姉が待っているはずでした。道ノ尾から先は道もなく、線路を伝って歩きました。川のそばに、顔や首の皮がはがれ、足をガクガク震わせながらたたずんでいる人がいて、水が飲みたかったのでしょうが、焼けただれた腕は伸ばすことができません。顔がゆがみ、引きつった唇が何かを訴えようとしていました。

 母が、身ぶりで、「イタイ、イタイ」と言っていると教えてくれました。もちろん、耳が聞こえない私には、原子野をさまよう人たちのうめきもなにも聞こえません。音というものが私にはわからないのです。時々父と母が何かを話し合っていますが、私にはなにが起きたのかわからなくて、頭の中はボーッとしたまま見ているだけでした。

 私たちの家は爆心地近くの山里町にありました。それは押しつぶされ、残がいの奥に赤い炎を残してくすぶっていました。母はきっと姉の名前を呼びながら姿を求めていたのだと思いますが、私は声を出して姉の名前さえ呼ぶこともできず、ただオロオロしていました。

 突然、うつぶして両の拳で地面をたたきながら泣く母の様子から、私は姉の死を悟り、その背中に覆いかぶさって大声で泣きました。夜になって、ようやく道ノ尾に帰り着いた時、浦上の真っ黒な空からは想像もできないきれいな星が輝いていたことが今も忘れられません。

 私たちろうあ者は家庭にあっても、日常的な会話のほかは、ニュースやうわさ話から遠ざけられて、ぽつんと孤立した状況にあります。そのため、詳しい情報は伝えてもらえないまま月日が過ぎ、信じられないでしょうが、私は原爆をずっと大きな爆弾と思っていました。終戦から一年たったある日、偶然に見た写真展で、それが実は「きのこ雲」の形をした「原子爆弾」だと知りました。

 さらに、放射能を浴びた被爆者が後遺症に苦しみ続けるといった詳しい被害の状況を聞かされたのは、それから随分たってからのことでした。ろうあ者は長い間、原爆の実態を知ることからも閉ざされていたのです。

 被爆から58年が過ぎた今日、皆さんの前で、こうしてろうあ被爆者の苦しみを訴えることができて感無量の思いです。同時に、文字どおり、なにも語らないまま亡くなっていった仲間たちのことを思うと涙が止まりません。

 大切な家族や親せき、友を一瞬にしてなくした苦しみと悲しみを乗り越え、今、こうして生かされている私にできることは、すでに亡くなった多くの、ろうあ被爆者の仲間たちに代わって、この目、肌で感じた58年前の出来事を語り続けることです。

 いつまでも、世界平和を祈り、この命が続く限り戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代の一人でも多くの人たちに、語り(手話)続けていくことをここに誓います。

平成15年8月9日
被爆者代表 山崎榮子   」

3,坂本フミエさん

  2005年 平和への誓い:『日本の姿、戦前に重なる』

「60年前の8月9日、原子爆弾はここの500メートル上空で、さく裂したのでした。一瞬にして数万の人々を死へ追いやり、街を焼き尽くし、破壊し尽くしたのです。生き延びた人たちは、60年過ぎた今日でも、原爆の後遺症に苦しみ続けています。

 私は、女学校の3年生でしたが、その日はたまたま家にいました。学童疎開で家を離れていた妹も、久しぶりに帰ってきました。ピカッと目を突き刺すような光線が走ったのは、「少し早いけどお昼にしようか」と妹が疎開先から頂いてきた白米のおにぎりの包みを開いた時でした。原爆は、私の家から1,8キロのところへ投下されたのです。私は、10メートルほど飛ばされ、庭にたたきつけられました。土煙で視界は閉ざされ、その場にうずくまりました。

 しばらくして視界がひらけてくると、あたりは見渡す限り、がれきが原となっていました。私は、一目散に近くの林へと走りました。どのようにして林へたどり着いたのか覚えていません。あちらこちらから被爆した人たちが林へ逃げてきました。衣服をもぎ取られ裸同然の人、胸をえぐられ、ピクピク動く心臓が見える人、前とも後ろともわからないほど焼け焦げた人、林の中はこのような人たちでいっぱいになりました。いつの間にか、私は意識をなくしていました。

 この林で一晩過ごし、私を捜す母の声で意識が戻りました。周囲の人たちほとんどが亡くなっていました。私はまた意識がもうろうとなり、死線をさまよったのです。

 住まいが壊れ、住めなくなった私たち一家は、8月19日に両親の故郷へ向かいました。そこへ落ち着き、近所の医者に往診を頼みました。が、来てくれた医者は、息絶え絶えの私をのぞき込むだけで、「死ぬものにやる薬はない」と言ったとか。「医は仁術」と聞いていましたが、戦争は医者の人間性までも喪失させるのでしょうか。

 あれから60年、私は何とか生きてきましたが、本当に長く苦しい道のりでした。こんな苦しみは、ほかの誰にも味わわせたくないと思っています。

 それなのに、地球上に争いは絶えず、核兵器はなくなるどころか新しい性能の核兵器の開発さえ計画されていると聞きます。「ふたたび被爆者をつくるな」と命を懸けて訴えてきた私たちの声は、どうして届かないのでしょうか。

 でも私はあきらめません。命ある限り、生き残っている26万の被爆者とともに、そして平和を求めて国内外の皆様方とともに、「長崎を最後の被爆地に」と叫び続けることを原爆犠牲者の御霊(みたま)の前でお約束し、私の「平和への誓い」といたします。

平成17年8月9日
被爆者代表 坂本フミエ    」