祈念式典では,被爆者が平和の誓いを読み上げている女性について紹介したい。

4,中村キクヨさん

  2006年 平和への誓い:『日本の戦前に重なる』

「8月9日、今日は「ながさき平和の日」です。1945年(昭和20年)8月9日のこの日を、人々は決して忘れ去ってはなりません。

 美しかった長崎の街は、アメリカによって投下された、たった一発の原子爆弾で、一瞬にして無残にも壊滅しました。「ながさき平和の日」には「長崎を世界で最後の被爆地に」との、核も戦争もない平和な世界をつくろうという、切なる、そして強い意志が込められているのだと思います。

 私は女学校を卒業すると同時に、川南軍需工場に動員され、日の丸の鉢巻きを締めて、一日一食で頑張りました。夫は戦地に赴き、新婚生活や青春時代の楽しみなど考える暇もなく、銃後の守りにあったその日、21歳の私は、旧小榊村(現長崎市)で被爆しました。

 生後わずか1カ月の長男を抱きかかえた防空壕(ごう)の中で、空襲警報解除の知らせを伝え聞き、安心して外へ出ました。家に帰り、子どもを寝かせつけて、物干しに洗濯物を広げながら、少し暗くなったのにキラキラするような光を感じて、何か変だなあと太陽を見上げたその瞬間、ゴオーッという地鳴りとともに、ものすごい強風で、その場に吹き倒されました。何が何だか、全く分かりませんでした。ふと気が付いて見ると、倒れた場所からだいぶん離れた所にいることに驚き、おののいて急に子どものことが気になり、家の中へ走り込みました。

 足の踏み場もないように倒れた家具などのすき間で、母がしっかりと長男を守っていてくれました。爆心地からは山を越え、5,8キロも離れているのに、このありさまでした。爆心地に近い岩川町にいた叔母とめいは、爆死しました。

 その日は息つく暇もなく、次々に船で送られてくる重傷者の救護に追われました。その中には学生さんが多く、皆若く前途のある人々ばかりなのに、全身やけどなどで痛んでおり、のどをかきむしりながら「水をください」「水をください」と叫ぶ姿に、この世の地獄を見ました。

 「水を飲ませてはダメだ」との声にそっと隠れて、タオルに水を含ませ絞り入れました。蚊の鳴くような声で「ありがとう」と力なくかすかに笑いながら死んでゆきました。「お母さん」と力強く叫んで息絶える人など、次々に息を引き取る若人たちに、なすすべもありませんでした。

 つい3年前、55歳を迎えた被爆二世の二男は、白血病で亡くなりました。放射線がまだ生きていたのです。先生から「二男の広さんの白血病は、母体からもらったものです」と言われたこの一言が忘れられず、私は今も苦しんでいます。

 61年前の記憶を忘れることはありませんが、語ること、書くことの苦痛から身を避けていた自分を反省し、今、戦争の愚かさ、怖さ、むごたらしさを「伝えなければならない」との切羽詰まった思いがあります。それは、戦争を知らない世代の人々が求める強い日本の姿が、戦争前の様子に重なり、いても立ってもいられないからです。

 戦争が残す国民や被爆者への贈り物は、未来永劫(えいごう)にもう要りません。被爆二世、三世の援護も切実なことです。核が使われれば、逃れる方法はありません。

 私たちが生きている時代に、平和な世界になってほしい。そのためには私も残された人生で、できる限り努力し続けることを誓います。

平成18年8月9日
被爆者代表 中村キクヨ  」

  ところで、中村さんについては2025年8月9の日の原爆の日の前の8月8日に、「被爆者運動続けてきた101歳「先立った仲間たちの分まで祈りたい」…平和祈念式典に5年ぶり参列へ」と題する記事があった(読売新聞オンラインより)

 7万人以上の命を奪った長崎への原爆の投下から9日、80年となる。101歳の被爆者、中村キクヨさん(長崎市)は「最後の節目」との思いで、長崎市の平和祈念式典に5年ぶりに参列する予定だ。60年以上、被爆者運動に取り組んでおり、「先立った仲間たちの分まで、世界に平和が早く訪れるよう祈りたい」と話す。(勢島康士朗)

 たった一発の爆弾が多くの命を奪い、一生を変えてしまう」。7月に誕生日を迎えた中村さんは、真剣な目つきで原爆への怒りを口にした。脳裏には80年前に見た、あの日の惨状が克明に刻まれているという。父と原子野が広がる爆心地付近に叔母らを捜しに向かった。「この先は何もない」。憲兵に言われ、引き返した。叔母とめい計3人は骨も見つからなかった。

 1960年頃、被爆者の深堀勝一さん(2006年に78歳で死去)と出会い、67年、深堀さんが会長を務めた長崎県被爆者手帳友の会の発足にかかわった。離島にも渡って被爆者健康手帳の取得を働きかけ、支部の結成や会員集めに奔走。県内最大規模の被爆者団体になった。副会長も務め、陳情で度々上京し、被爆者の援護地域の拡大に貢献した。

 2006年、平和祈念式典で被爆者代表として「平和への誓い」を読んだ。誓いでは、原爆の2年後に生まれた次男が、2002年に白血病のため55歳で亡くなったことを初めて明かした。被爆による2世への遺伝的影響は明確になっていないが、医師に「白血病は母体からもらった」と告げられたことが忘れられなかった。「原爆は生涯、被爆者を苦しめる」。証言活動にもより一層取り組むようになった。

  2008年には米ニューヨークの国連本部で体験を語った。「感動した」。聴衆にそう声をかけられ、抱きしめられた。「海外の人にも伝わる。やってきたことは間違いではなかった」と実感した。

 共に活動した仲間たちは一人、また一人と鬼籍に入った。最盛期に会員が5万人以上いた友の会も、今では二世会員も含めて約1300人に減少した。「被爆100年の時、友の会は、被爆者運動はどうなるのか」。被爆者のいない未来を考えると不安が募る。

 そんな中、昨年12月に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞し、勇気づけられた。「苦しいこともたくさんあったが、長く続けてきたことで受賞へとつながった。被爆者運動を続けてきた一人として、とてもうれしい」と話す。

 世界では戦禍が絶えず、核戦争への危機感は増している。「何十年も平和を訴えてきたのに、100歳を過ぎてもまだ本当の平和は訪れていない」と深い悲しみを覚える。

 今は長男と孫と暮らし、身の回りのことは基本的に自分で行う。月に1回、市内の平和公園で行われている「長崎の鐘」を鳴らす活動に参加するなど、自分にできる運動を続けている。

 「101歳になって身体的にきついと感じる時もある。それでも私も生かされた被爆者の一人として、犠牲者を追悼したい。一日も早く平和になるようにと、式典を訪れた世界の人たちと一緒に祈りたい」。8月8日、そう意気込みを語った。・・という。