前回に引き続き、祈念式典で,被爆者が平和の誓いを読み上げている女性を紹介したい。
5,奥村アヤ子さん
2009年平和への誓い:『核兵器は地球上にいらない』
1945年8月9日11時2分、原爆が投下され一瞬の出来事に逃げることもできず、炭のように体を焼かれ、一口の水も飲むこともできずに亡くなった多くの人々よ、どんなにか無念だったでしょうね。
64年前と同じ8月9日が、セミの声と共にまた巡ってきました。当時8歳だった私は、爆心地から500メートル離れた城山町に新しい家を建ててもらい、家族9人でにぎやかに、楽しく、そして幸せに暮らしていました。その朝までは家族一緒だったのに「考えられない11時2分」がやってくるのです。その朝まで元気だった家族、一緒に遊んでいた友達が、私の目の前から消えてしまいました。
その後、毎日泣いていました。46年間、原爆の話ができませんでした。原爆のことは、見たくない、聞きたくない、私の頭の中から消えてほしい…、私は、原爆から逃げていたのです。けれども、私の家族が生きていたことを書き残したくて、ある本の中に、旧姓徳永アヤ子の名前で私の体験を書きました。これがきっかけとなり、私は今、修学旅行の皆さんに被爆体験を伝えています。
全身やけどを負った4歳の弟と私だけが生き残り、知らない田舎に引き取られました。母がいたら「おんぶしてよ、抱っこしてよ」と弟は甘えたかったでしょうに、甘えることもできず、治療のときは我慢できずに泣いていました。私も腕にやけどをしていましたが自分の治療のことは覚えていません。たぶん弟と一緒に泣いていたんでしょう。
弟は自分の体の痛みを我慢するだけ我慢し、地獄のような苦しみだけを背負って昭和20年10月23日に亡くなりました。わずか4年の短い弟の人生でした。
私は戸外で遊んでいましたので、全身に放射線を浴びていました。髪の毛は抜け、歯茎からは出血し、体全身具合が悪いのに、病院に通うことができませんでした。両親や兄弟がいない生活は地獄そのものでした。このような苦しみ、悲しみはほかの人たちに味わわせたくありません。何十年たっても消えることのない苦しみと悲しみを生み出す核兵器は地球上にはいらないのです。
アメリカは核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として行動する道義的責任があり、核兵器のない世界の実現を目指すことを、アメリカ大統領として初めて明確にしたオバマ大統領のプラハでの演説は、64年目にしてやっと被爆者の声が世界に届いた形となり、心強く感じています。
私は世界中の人々と一緒に、この地球上から核兵器をなくして安心して暮らせるように、一人でも多くの人に平和と命の尊さを伝え続けていくことを誓います。
平成21年8月9日
被爆者代表 奥村アヤ子 」
6,城臺 美彌子さん
2014年平和への誓い:『憲法を踏みにじるな』
1945年6月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時6歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。8月9日の朝、ようやく眼が覚めたころ、あのサイレンが鳴りました。
「空襲警報よ!」「早う山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ登りました。爆心地から2・4㌔地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。
そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入していたのです。
私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣の同級生トミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間キラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えておりません。しばらく経って、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのとき何も怪我もしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。
たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界から一刻も早くなくすことです。
そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は日本国憲法を踏みにじった暴挙です。日本が、戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。平和の保障をしてください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。
福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々が大勢おられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働、原発輸出、行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。早急に廃炉を検討してください。
被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生さえも私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、想いいっぱいで語っています。
長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩きましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え遺(のこ)していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。
平成26年8月9日
被爆者代表 城臺 美彌子 」
7,工藤武子さん
2023年平和への誓い:『次の世代に残すために』
78年前の8月9日、7歳の私は爆心地から約3キロの(長崎市)片淵町の自宅で母や姉、弟2人の5人で食卓を囲んでいました。突然、強烈な閃光(せんこう)が走り、皆一斉に庭先の防空壕(ごう)に駆け込んだ次の瞬間、地響きのような音がして私は母にしがみつきました。しばらくして壕を出てみると、縁側のガラス戸は跡形もなく壊れ、畳は跳ね上がり、食卓はひっくり返っていました。
その後、勤務先の造船所から帰宅した父は、爆心地に近い城山町の叔父の家に行き、2人の遺体を探し出し、焼け跡で荼毘(だび)に付しました。書斎のがれきの下にあった叔父の遺体も、台所で見つかった叔母の遺体も無残に焼けていたそうです。
原爆投下直後、私たち家族は無事でしたが、被爆から10年余りたち、次第に体調を崩していった父は肝臓がんと診断され、3カ月程の闘病の末、亡くなりました。臨終の時、父の顔に酸素マスクを当てていた私は、「神様、私の家族をお守りください」という最期の言葉を聞き、涙が止まりませんでした。その後、母と姉、弟、そして被爆時、母の胎内にいた妹までもが、相次いでがんで亡くなりました。私自身も3年前、肺がんの手術を受けました。たった一発の原爆で、長崎ではおよそ7万4千人、広島では14万人が亡くなり、生き残った人々の多くも、今なお、さまざまな後遺症に苦しんでいます。
世界には、長崎や広島で使われた原爆の威力を大きく上回る核弾頭が約1万2500発存在し、ロシアのウクライナ侵略による緊迫した国際情勢の中、この美しい地球は、核兵器によって破壊され汚染される危機にさらされています。核戦争を起こさないために、唯一の戦争被爆国である日本は、今こそ広く世界に核兵器の非人道性を伝え、武力によらない平和創造の道筋を指し示し、地球と人類の未来を守るには、核兵器廃絶しかないと強く訴えるべきです。
私は、今から15年前の2008年の秋から4カ月間、「第63回ピースボート地球一周の船旅」に参加し、船で世界一周をしながら自らの被爆体験を証言しました。そのとき同乗されていたカナダ在住のサーロー節子さんの力強い言動に鼓舞され、帰国後に被爆者団体の理事としてさまざまな活動を始めました。
現在は、小学校などの平和学習の場で、被爆2世の方々と製作した紙芝居を使い、被爆体験の証言活動に取り組んでいます。これは長崎に原爆が投下された後、救援列車第1号に乗り込み、救護活動にあたった当時20歳の男性の体験をもとに製作したものです。紙芝居を見る純真な子どもたちの姿にふれるたび、私はこの子どもたちが戦争に巻き込まれ、私たちと同じ苦しみに遭うようなことがあってはならないと強く感じています。
今、わが国には、被爆者の願いをしっかりと受け止め、核兵器廃絶と平和な世界の実現に向けて活動を続けている高校生がいます。高校生平和大使、高校生1万人署名活動をしている若者たちです。さらに私の住む熊本県では高校生が「ヒロシマ・ナガサキピースメッセンジャー・平和の種まきプロジェクト」と題して、同世代や下の世代に向けた平和学習の出前授業も行っています。
その若者たちの姿に勇気づけられ、私は未来への希望の光を感じています。放射能に汚染された灰色の世界ではなく、命輝く青い地球を次の世代に残すために、これからも力の限り、尽くしていくことを誓います。
令和5年8月9日
被爆者代表 工藤武子 」
工藤さんは7歳の時、爆心地から3キロの自宅で被爆。一緒にいた母や、きょうだい3人、親戚を探して爆心地付近に入った父は、その後がんを患い、亡くなった。
2008年、被爆者が世界各地で体験を語るピースボートの「証言の航海」に参加。その後、熊本で県内の被爆二世と共に紙芝居「長崎原爆被害のお話」を製作した。熊本県原爆被害者団体協議会理事を務め、現在も学校などで講演を続けている。
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が2017年にノーベル平和賞を受賞した際、サーロー節子さんのスピーチに心を動かされた。以来「平和への誓い」に応募し続けてきたという。工藤さんは「緊迫した国際情勢で、核兵器廃絶を訴えるのが大事な時。核兵器は(被爆者を)生涯にわたって苦しめる非人道性のある兵器だと伝えたい」と話した。
代表者選定審査会長の調漸(すすむ)・長崎平和推進協会理事長(67)は選定理由について、「明確な訴えがあり、若い世代へのアプローチも豊富。今年の平和への誓いにふさわしい」と話した。
今まで紹介したように長崎原爆の祈念式典で、平和への誓いを朗読した女性は、岡信子さんも含めて8人になる。2002年の8月(東海さん)、2003年8月(山崎さん)、2005年8月(坂本さん)、2006年8月(中村さん)、2009年8月(奥村さん)、2014年8月(城臺さん)、2021年8月(岡さん)、2023年8月(工藤さん)と続いている。どの誓いも貴重な体験を述べ、如何に平和が大切であるかを心の底から述べていると思う。
このような発言を残してくれて、感謝しかない。