明治民法の特徴は、親族編にしても相続編にしても、「家」制度という概念で貫かれているということです。
親族編は「親族」の規定から始まり、総則、戸主及び家族、婚姻、親子、親権、後見、親族会、扶養の義務というように章が続きます。ちなみに当時の親族編は725条から963条までありました。
「第725条 左に掲げたる者はこれを親族とする。
1,6親等内の血族
2,配偶者
3,3親等内の姻族 」
この条文が親族編のトップです。実は、この条文は、現在の民法と条文の番号も内容もまったく同じです。1947年(昭和22年)に明治民法のうち親族編と相続編は法形式上は廃止されたのですが、それは形だけで、実は明治民法のうち、憲法24条に違反していると明確に認められた条文のみが廃止になり、そうでない条文は、そのまま残っているのです。明治民法は1896年(明治29年)4月に制定され、1898年(明治31年)7月から施行されていますから、なんと117年間生きているのです。自民党は今の憲法は60年改正されていないので、改正されるべきだと主張しているようですが、117年間も昔の民法でも良いって言っているわけですね。おそらく自民党の体質は明治憲法の体質と同じなのでしょう。
ところで、この条文で「親族」の規定がなされているのですが、なぜ、このような区別の仕方になっているのでしょうか。梅教授の説明によれば「固より一定の根拠などはないが、外国ではローマ法において4親等までを親族とする例がある。支那にては高祖以下4代を限りとしてこれを認めているようだ。そして後者は8親等に該当するので、4親等と8親等の平均は、すなわち6親等である。故に民法では6親等内の血族に限った。」ということです。ちなみに、「高祖以下4代」というのは、まず、直系尊属に遡って、父母(1親等)、祖父母(2親等)、曾祖父母(3親等)、高祖父母(4親等)と数え、さらにこの高祖父母から4代下がるのです。そうすると、これは8親等に該当するということです。ローマ法と中国法の折衷案だということはすごいですね。しかもこのような考え方は、昭和22年の民法改正時においてもまったく再考されなかったというのですから、それも驚きです。
さて「6親等」というのは、現代感覚からすれば、かなり広く認めていると思われますが、明治の初期頃までは、おそらく女性は初潮を迎える年頃には他家に嫁に出され、妊娠出産していただろうと思われます。すると10代で母親、20代で祖母、30代で曾祖母、40代で高祖母などという状況があったかも知れません。なので、当時としてはそれなりに現実的な感覚だったのでしょう。それにしても、仮にそれが現実だったとすれば、嫁ぎ先では姑が3人や4人いても不思議ではなかったかもしれません。
「第732条
戸主の親族にしてその家にある者及びその配偶者は、これを家族とする。」
「親族」という概念のほかに「家族」という概念がありましたが、それは今使われているような「家族」ではなく、戸主を中心に構成され、「戸主の親族」に限定され、決して配偶者の親族は含まれないということです。また梅教授によれば「その家にある者」とは、同じ「家籍」にある者、つまり「戸主と同一戸籍にある者」ということですから、例えば結婚して他家に行った娘は親族であっても「家族」ではないのですね。
「第746条
戸主及び家族はその家の氏を称する。 」
「家」に入れば、同じ「氏」を使う義務がありました。梅教授によれば「今日は、家には必ず氏があるから、家を組織する戸主や家族は当然その家の氏を称すべきこと言をまたない」としています。そして、妻の氏については「従来の行政上の慣習によれば妻は実家の氏を称するべきだと言っても、これは支那の慣習を踏まえたものであって、我が邦の家制の主義には適していない。また実際の慣習にも適合していない。つまり妻がその実家の氏を称すると言うことはあたかもなお実家に属するという観を成し、夫婦家を同じくするという主義には適していない。」と説明しています。妻は夫の家に所属するのですね。
「第747条
戸主はその家族に対して扶養の義務を負う。」
梅教授によれば「我が法律においては家族相続は1人に限りその者は前戸主の財産を相続するが故にこれを扶養する義務がある」ということです。
このように戸主の義務は重いのですが、戸主には女性もなることができました。有名なのは樋口一葉が女戸主だったということです。彼女は1872年(明治5年)に生まれましたが、戸主だった兄が死亡し、さらに父親も死亡したため、17歳で女戸主になったということです。そのため家族を養う責任を負うことになり金銭的につらい思いをしたそうです。